毎号のニューモラルのテーマについて、わかりやすくまとめています。
学習の資料としてもご活用ください。
※令和元年8月をもって『ニューモラル』が創刊50周年、600号を迎えました!
これを記念し、「ひとことメッセージ」を募集いたします。
【No.608】「挨拶」の力

朝の出会い頭に「おはよう」と声をかけ合うのは、すがすがしいものです。ところがその言葉自体は、内心“朝から嫌な人に会ってしまったな。それでも知らん顔をするわけにもいかないし、まあ仕方がないか”と思いながらでも、口にすることはできます。
挨拶とは、もともと禅の言葉でした。「挨」には「押し開く」という意味があり、「拶」は「迫ること」を意味します。師匠が弟子に問答を迫って悟りを試す、あるいは修行をしている人同士が問答を繰り返して切磋琢磨するというのが、本来の意味であったようです。
これが転じて「人に近づき、心を開く際の言葉や動作」を示すようになりました。代表的なものとしては「おはよう」や「こんにちは」をはじめとする言葉の数々、また、動作ではお辞儀や会釈などが挙げられるでしょう。そこには儀礼的な意味もありますが、一般には友好の意思や親愛の情がこもったものと受けとめられます。つまり挨拶とは、みずから胸襟を開き、相手の懐に飛び込んでいくことに通じるのです。
初対面の人を前にしたとき、また、気心の知れた人がいない場所では、私たちはつい身構えてしまうものです。そんなときにかけられた挨拶のひと言で緊張が解け、心が温まったというのは、多くの人が経験していることではないでしょうか。心のこもった挨拶には、固く閉ざされた心の扉をも押し開いていく、不思議な力があるようです。
私たちは、家庭や学校、職場、地域社会をはじめとする日常生活の場で、ほかにもさまざまな挨拶を交わしています。それは日常的なものであるだけに、あまり気に留めることはないかもしれませんが、あらためて考えてみると、人間関係の潤滑油的な役割を果たす、とても大切なものです。たったひと言の声かけによって周りの人たちの心が明るくなり、家庭や学校、職場や地域社会が和やかになるのなら、挨拶の言葉を発する私たち自身の日々の暮らしも、より心豊かなものになっていくはずです。
まずは自分から一歩を踏み出して、日常の挨拶に「相手の幸せを祈る心」を添えていくように意識してみませんか。
令和2年4月号
【No.607】「つながり」を感じる心

私たちの生活は、多くの「つながり」に支えられて成り立っています。例えば日常の食事について考えてみると、どうでしょうか。
「私がつくったおにぎり」――言葉でこのように表現したとします。この場合、多くは「お米を研いで、ご飯を炊き、それを握る」という過程を自分の手で行ったことが連想されるのではないかと思います。
しかし、ここで考えてみたいことがあります。このお米を、私たちはどのようにして手に入れたのでしょうか。
「お店で買ってきた」
「お店にも、仕入先があるはずだ」
「商品として管理したり、運搬に携わったりした人もいるだろう」
「元をたどれば、このお米を生産してくれた農家が存在する」……
そうした過程に携わる人の多くは、私たちにとって「顔の見えない存在」であり、日ごろ、あまり意識することはないかもしれません。しかし、このお米が私たちの手元に届くまでには、どれほど多くの人たちが、どれほどの労力をかけてくれたことでしょうか。同じように、海苔や塩、おにぎりの具を含めた食材や調味料にも、生産・加工・流通に携わった人たちが存在します。物によっては、その「つながり」が海外まで広がっている場合もあるでしょう。
現代に生きる私たちは、「完全な自給自足の生活」を送っているわけではありません。一人ひとりが社会の一員として、それぞれの持ち場で役割を果たし、生活に必要な物品やサービスを提供し合うこと、さらにはその報酬を受け取ることで社会生活を成り立たせています。つまり私たちは知らず知らずのうちに、実に多くの人たちとの「つながり」に支えられて、今を生きているのです。
「それはギブ・アンド・テイクの関係だから、特別に恩義を感じたり、感謝したりする必要はない」という考え方もあるのかもしれません。しかし、この支え合いや助け合いに対して「ありがとう」という心を向けることは、社会という「つながり」の中にある一人ひとりの努力を正しく受けとめ、お互いの存在や人格を尊重し合うことに通じていくのではないでしょうか。
私たちは、決して自分一人の力で生きているのではありません。さまざまな「つながり」の中で生かされて生きていることを思うとき、「おかげさまで、ありがたい」という、謙虚な感謝の気持ちがわいてくることでしょう。自分自身を支えてくれている、さまざまな「つながり」を再認識し、いっそう強い絆を育みながら、一人ひとりの心豊かな人生と住みよい社会を築いていきたいものです。
令和2年3月号
【No.606】「苦手」と向き合う

苦手――そこには、私たちがその物事に対して抱く嫌な感情、疎ましく思う気持ち、不快感などが見え隠れします。
その感情は、どこから生まれてくるのでしょう。それは行き着くところ、自分自身の考え方や感じ方、または一時の気分や機嫌などから生まれていることが多いのではないでしょうか。つまり私たちが苦手と感じる物事そのものが「絶対的に悪いものだ」と言い切れることは案外少ないのではないか、ということです。
――蛙を好きな人と嫌いな人がいますが、嫌いな人は「蛙」と聞いただけで、嫌な気持ちになるでしょう。(中略)人間は、個人個人によって蛙に対しての好き嫌いの差が激しく、その違いの幅は極めて大きいのです。人間の好き嫌いは、人物、事物、事柄、言葉など、すべてのことに及んでいます。蛇は、本能に左右されているので、蛙に対する好き嫌いを自分の意志で変えることはできません。人間は、蛙に対する好悪をいつでもコントロールできます。つまり、蛙が嫌いな人でも好きになることができます。例えば、蛙が好きな友だちを持ったとします。すると、その人に会うといつも蛙の話ばかりするので、だんだん慣れてきて、蛙を好きになっていく場合もあるでしょう―― ――蛙を好きな人と嫌いな人がいますが、嫌いな人は「蛙」と聞いただけで、嫌な気持ちになるでしょう。(中略)人間は、個人個人によって蛙に対しての好き嫌いの差が激しく、その違いの幅は極めて大きいのです。人間の好き嫌いは、人物、事物、事柄、言葉など、すべてのことに及んでいます。蛇は、本能に左右されているので、蛙に対する好き嫌いを自分の意志で変えることはできません。人間は、蛙に対する好悪をいつでもコントロールできます。つまり、蛙が嫌いな人でも好きになることができます。例えば、蛙が好きな友だちを持ったとします。すると、その人に会うといつも蛙の話ばかりするので、だんだん慣れてきて、蛙を好きになっていく場合もあるでしょう――(望月幸義著『「考え方」を変える』モラロジー研究所刊)
もちろん、蛙を苦手な人が実際に蛙を好きになることは、それほど簡単なことではないでしょう。しかし「苦手という感情は、自分自身がつくり出すものである」という認識は、避けがたい「苦手」との向き合い方を考えるうえで、一つの参考になるのではないでしょうか。
中国古典の『礼記』に、こんな一節があります。
「愛して而も其の悪を知り、憎みて而も其の善を知る」
愛する人であっても、欠点は欠点としてきちんと理解しておこう。憎んでいる相手であっても、その長所や美点は正しく認めよう――そう心がけたなら、いつ、どんなときでも、また、どんな相手とも、心穏やかに向き合うことができるのではないでしょうか。
どんな人にも必ず「いいところ」があり、同時に「よくないところ」もあるものです。その事実を正しく認識したうえで、相手を尊重しながら接していくことは、その人の「ありのままの姿」を受けとめることにほかなりません。
もう一つ、人や物事に対して“苦手だな”と感じてしまう自分自身をありのままに受けとめることも、大切なのかもしれません。そこでひと呼吸を置いたら、今度は「苦手」という感情にとらわれすぎないように心がけつつ、「自分がこの物事と向き合う意味」や「相手の長所や美点」を冷静に見つめてみたいものです。そこから、前向きな一歩を踏み出せることもあるのではないでしょうか。
かたくなになりがちな私たちの心。それをほんの少しだけゆるめてみると、苦手なもの、苦手なこと、苦手な人に向ける目も、穏やかなものに変えることができるかもしれません。いつも穏やかな心で毎日を過ごしたいものです。
令和2年2月号
【No.605】「希望」を見いだす

お正月の神社仏閣は、三が日を中心に初詣の人たちでにぎわいます。その機会には、多くの人が「どうか今年もよい1年になりますように」と祈るのではないでしょうか。
ある小学校の先生は、道徳の授業に関連して、子供たちにこんな問いかけをしたそうです。
「もし自分がその神社の神様だったら、どう思うかな」
すると、子供たちの反応は……。
「そんなにたくさんの人からお願いされても、応えられない」
……もっともな話です。これを受けて、先生は子供たちに語りかけます。
「神社やお寺では、自分のことを“お願い”するのではなくて、“感謝と誓い”をするものではないだろうか」と(参考=寺門光輝著『子供と語り合う「道徳の時間」』モラロジー研究所刊)。
年の初めにあたって、誰もが心に抱くであろう「今年もよい1年に」という希望。それは神仏にご利益を願うことでかなうものというより「そんな明るい未来が開けるように、私は努力をします」と自分の心に誓うからこそ実現されていくのではないか、というわけです。
心の中の言葉は、力を持ちます。「頑張ろう」という思いは、心の中にプラスのエネルギーを生むはずです。反対に「もうダメだ」と思ったなら、悲観的で消極的なマイナスの心がはたらいて、未来にも希望を持てなくなってしまうのではないでしょうか。また、口に出して言ったなら、その言葉を聞く人たちの心まで暗く重くなっていくことでしょう。
それは初詣の「祈り」だけの問題ではありません。日ごろ、私たちが何げなく口にし、心の中で思う言葉。希望に満ちた実り多き人生を、みずから切り開いていく「心の姿勢」をつくるため、そして周囲を明るくしていくためにも、ひと言ひと言に注意を払いたいものです。
ここで元号「令和」に込められた意味について、あらためて考えてみたいと思います。
――悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい――(平成31年4月1日、内閣総理大臣会見より)
この言葉の後半を、私たち一人ひとりの人生に置き換えて考えてみましょう――たとえ人生を歩むうえで厳しくつらい時期があったとしても、それを乗り越えたなら、次には必ず希望の花開く「春」を迎えることができるのではないでしょうか。
冬来たりなば春遠からじ。それを信じて、どんなときも希望を忘れずに歩み続けていきたいものです。
令和2年1月号
【No.604】うれしい言葉 耳の痛い言葉

Aさんには、30年以上前に高校時代の恩師から教わって、今でも心に留めている話があるといいます。
――誰かについての「いい話」……例えば「よいことをした」とか「すばらしい人だ」といったことは、直接本人に伝えるより、むしろ周囲の人たちに伝えよう。「いい話」を聞いたら、みんな心温まる思いがするでしょう。直接の褒め言葉はおべっかのようになって、お互いのためにならないこともあるが、巡り巡って本人の耳に入った言葉なら「自分の知らないところで、そんなふうに言ってくれていたのか!」と、かえって喜びが大きくなるのではないかな。反対に、「よくない話」……失敗したことや、欠点・短所にかかわることは、周囲の人たちには一切言わないこと。「忠告」「注意」は誰もいない場所でこっそりと、直接本人に教えてあげなさい――
確かに「人を介して伝わる言葉」は、かかわる人が多くなるほどにインパクトが大きくなるものです。
「よくない話」を本人のいない場所で第三者に言えば、陰口になります。自分が陰口をたたかれていたことを知って、うれしく思う人はいないでしょう。たとえ自分に非があり、その事実を指摘されたにすぎないとしても、人を介して自分の耳に入れば、ますます受け入れがたい気持ちになるのではないでしょうか。
そして陰口は「たまたま耳にした第三者」にとっても気持ちのよいものではありません。仮に同調しながら聞いた場合は、話題の人物を心の中で見下したり、あざけったりすることになるのでしょうから、話し手も聞き手も冷たい心が増幅され、嫌な雰囲気が広がっていくことでしょう。
私たちの言葉は、よくも悪くも周囲の人たちに影響を及ぼします。もしかすると、私たちが思う以上に大きな影響が生まれているのかもしれません。
「よい影響」であれば、ぜひ広めていきたいものですが、「悪い影響」は極力抑えるべきでしょう。また、万が一にも陰口に打ち興じているとしたら、自分の口から発した「よくない話」を一番近くで聞くことになるのは自分の耳であるという点も、心に留めなければなりません。
近年は通信技術の発達により、少し前までは想像もつかなかったほど、多種多様なコミュニケーションの手段が生まれました。遠く離れた場所にいる人に対して、または不特定多数の人に向けても、手軽に言葉を伝えることができるようになっています。そうした場合も、顔と顔を合わせて言葉を交わす際と同様に「言葉が自分と周囲に与える影響」や「相手を思いやることの大切さ」を心に留めておかなければならないでしょう。
「言葉は身の文」といわれます。言葉とは、その人の人間性を表すものであるということです。日々に発する言葉のもととなる、自分自身の内面にも、あらためて目を向けていきませんか。
令和元年12月号
【No.603】「心のつながり」を思う

家庭や学校、職場、地域社会……。私たちの生活の場には、世代を重ねて受け継がれてきた大小さまざまな物事があります。それらの中には、ふだんは意識されないほど私たちの暮らしに溶け込んでいるものもあるでしょう。中でも一番の基本といえるものが「いのちのつながり」です。
人は誰もが父親と母親から「いのち」を与えられ、この世に生まれてきました。さらに誕生後も、ある程度の期間は周囲の大人たちによる献身的な養育を受けなければ、生き抜くことはできなかったはずです。
養育とは、単に「食物を与えられ、身の回りの世話をしてもらう」ということにとどまりません。「人は教育によってのみ人間になる」といわれるように、私たちは周囲の大人たちに導かれながら、言葉や生活習慣、物事の善悪などを学び取り、社会の中で生きるための基本的な能力を身につけてきました。そこには「手をかけ、時間をかけてもらった」という労力の問題だけでなく、こんな心が存在していたのではないでしょうか。
“どうかこの子が無事に生まれ、元気に育っていくように”
“社会の中でしっかりと生きていくことができるように”
親をはじめとする多くの大人たちとの「つながり」の中で、そうした温かい心を注がれてきた結果、私たちの今日があるといえるのです。
生活環境や栄養状態、医療技術などが確立されていなかった時代は、生まれた子供が無事に成長していけるかどうかは今以上に切実な問題でした。そのため、先人たちは子供の成長過程の節目ごとにさまざまな儀礼を行って、その無事な成長を祝い、そして祈ってきました。今でも出産前の「帯祝い」に始まり、誕生後の「お宮参り」など、多くの風習が残っています。
11月15日に行われる「七五三」もその一つです。今日のように、7歳の女児、5歳の男児、3歳の男児と女児が氏神様に詣でて健やかな成長を報告した後に千歳飴をいただくという形になってきたのは、明治以後の東京からのようですが、今では全国的に行われています。
長い歴史を経て私たち日本人の生活に根づいてきた風習や儀礼などの形式は、今後も時代に応じて変化していく部分があるかもしれません。しかし、それらの根底に流れている先人たちの心をしっかりと汲んで、次の世代へとつないでいくことは、大人世代の大切な役割であり、先人に対する「恩返し」の一つの方法といえるのではないでしょうか。
令和元年11月号
【No.602】「よいこと」をしているのに

地域密着型のスーパーマーケットを経営するSさん。「地域の方々に喜んでいただける店づくりをしたい」という思いから、早朝の掃除を思い立ちました。
店の周辺を1人で黙々と掃除するうちに、お店の人たちが出勤してきます。Sさんの姿を目にした皆は驚き、口々にこう言いました。
「社長、すみません」
「私たちがやりますから」
そもそも、これはSさんが自分でやろうと決めた掃除です。Sさんは「いいから、いいから」と言うと、すがすがしい気持ちで掃除を続けました。
ところが、それから1か月もたつと、Sさんの掃除は「朝の見慣れた光景」になってきました。毎日のことですから、お店の皆も初めのころのように驚いたりしません。出勤時にSさんが掃除をしているところに行き合っても、軽い挨拶をするだけで通り過ぎていくようになりました。
そのとき、Sさんの心の中で何かが変わり始めました。
社長である自分が朝早くから1人で掃除をしているのだから、皆もたまには手伝ってくれてもいいじゃないか。少なくとも「すみません」と言うくらいの気づかいがあってもいいはずだ……。どこからか、そんな気持ちがわき起こってきたのです。
*
よいと思われる物事に率先して取り組むこと。それは道徳的な行為といえます。しかし、そのときの自分自身の心をよくよく見つめてみると、どうでしょうか。
善意の行動でも、心のどこかに「やってあげている」という意識があると、見返りを求めてしまいがちです。相手が感謝の気持ちを示してくれないと、不満がわき起こります。また、何事にも熱心に、そして真面目に取り組むのは大切なことですが、「自分ほど熱心にやらない人を責める」というように、「自分」を基準に物事を測り、歩調の異なる人を受け入れないようでは、人間関係はうまくいかなくなるでしょう。
これは一見すると「よいこと」「正しいこと」に思える行為の中に、自分中心の身勝手さが見え隠れしているようでもあります。結果として「よいこと」をしながら周囲の人と衝突したり、自分もストレスを抱えたりするのであれば、それは本当の意味での「よいこと」とはいえなくなる可能性があります。
「言うは易く、行うは難し」といわれます。しかし「行うこと」よりも難しいのは、そのときの「心の持ち方」なのかもしれません。
周囲の人たちの立場や状況を思いやりつつ、自分の心を謙虚に見つめ直す習慣は、自分自身を確実に成長させてくれます。また、そうした心の姿勢は、接する人たちにも自然と伝わり、親しみを生むものです。それは、よりよい人間関係を築き、お互いの人生を心豊かなものにしていくうえで、大きな力になることでしょう。
令和元年10月号
【No.601】伝えよう 心からのありがとう

「ありがとう」――それはたったの五文字ですが、人間関係に潤いを与える、とても大切な言葉です。ただし、ふだんはあまり気にも留めず、何げなく口にしている場合もあるかもしれません。
誰かから親切にしてもらって、お礼を言うときのことを考えてみましょう。同じ「ありがとう」という言葉をかけるのでも、内心“これぐらい、大したことではない”と思いながら言うのと、“おかげさまで、助かりました”という心からの感謝を込めて言うのとでは、まったく違う響きをもって相手に伝わるのではないでしょうか。
もちろん、相手の心に喜びを生み、お互いの絆を強めてくれるのは、心からの感謝を込めた「ありがとう」でしょう。
そこに込める「心」を、あらためて見直してみると、「ありがとう(有り難う)」とは「そのように有ることが難しい」という意味です。それは「当たり前ではない」ということでしょう。
与えられた状態を「当たり前」と思ってしまうと、ありがたみは見えにくくなるものです。とりわけ家族のように近しい間柄であればあるほど「相手がこれをやってくれるのは当たり前」「自分も相手にしてあげていることがあるのだから、お互いさま」などと思ってしまいがちではないでしょうか。また、ありがたみが分かっていたとしても、気恥ずかしかったり、「今さらそんな他人行儀なことを言う必要はない」と思ったりして、なかなか素直に「ありがとう」を言えないものかもしれません。
しかし、世の中に「当たり前」はないはずです。私たちの日常に隠れている「有り難いこと」の一つ一つに目を向け、そのありがたみをしっかりと認識するほどに、喜びを感じる機会が増えていきます。否定的な考えから「ありがとう」は生まれません。何事にも感謝できる人は前向きで、喜びをつくるのが上手な人といえるでしょう。
そして、心からの「ありがとう」の言葉は、相手に“あなたのしてくれたことを、私はきちんと認識しています”“あなたのことを大切に思っています”というメッセージを伝えてくれます。そのメッセージこそが、相手の心に喜びをもたらし、私たちの人間関係に潤いを与えてくれるのではないでしょうか。
お互いの心に喜びをもたらし、人生を輝かせる「ありがとう」の言葉。まずは一番身近な人に向けて、心からの「ありがとう」を言ってみませんか。
令和元年9月号
【No.600】道徳ってなんだろう

総合人間学モラロジーの創建者・廣池千九郎(法学博士、1866~1938)は、大正から昭和の初めにかけて「道徳の科学的な研究」に取り組みました。その廣池に、次のようなエピソードがあります。
昭和4(1929)年3月、廣池が2人の随行者を連れて講演先へ向かう道中の出来事です。乗っていた汽車が途中の駅で止まったかと思うと、その先でトンネルが崩落したとの知らせが入り、下車を促されました。復旧を待っていたのでは、講演先との約束の時間に間に合いません。一行は駅前でタクシーを頼み、3人を乗せて目的地まで20円で行ってもらうことになりました。
荷物を積み込み、出発しようとしたとき、2人の人物がやってきました。1人は「重要な仕事があって先を急いでいる」という、会社員風の男性。もう1人は「どうしてもすぐ家に帰らなければならない」という女学生です。駅前のタクシーは出払っていて、廣池たちが乗ろうとしている1台を残すのみでした。気の毒に思った随行者は、親切心から「どうぞ、どうぞ」と同乗を勧めました。
ところが、その人たちが車に乗り込もうとした瞬間、廣池が口を開きました。
「私たちは目的地まで、3人で20円という契約をしたのです。あなた方2人が加われば、その分ガソリンが余計にいるでしょうし、タイヤも傷むでしょう。それでは運転手さんが気の毒だから、私たちもあなた方も全員、1人5円ずつ出すことにしませんか」
つまり、5人で合わせて25円を支払うことにすれば、運転手は当初の契約より5円収入が増えるというわけです。
実は、そこには「同乗を頼んできた人たちだって、多少なりとも自分のお金を出したほうが気兼ねなく乗っていけるだろう」という配慮もありました。廣池たちの一行も、同乗者が増えることで少々窮屈な思いはするでしょうが、3人で15円ということなら、当初の予定より5円安く済むのです。種明かしが済むと、廣池はこう言いました。
「これで三方、どちらもよいことになるでしょう」
※
自分が親切心を発揮することで、相手が助かる。それは「道徳的な行為」といえるでしょう。しかし、その行為の影響を受ける「自分と相手以外の第三者」の存在を、ともすると見落としてしまっていることはないでしょうか。
ここでいう「第三者」とは、エピソード中のタクシーの運転手のように、顔の見える相手ばかりとは限りません。広くとらえるなら、それは私たちが生きる社会全体ともいうことができます。
私たちは、この広い世界にたった1人で生きているのではありません。まずは日常、何かをしようとするときには、ひと呼吸置いて「自分の行為の影響を受ける人」の存在に思いを馳せてみたいものです。こうして、一人ひとりが「自分よし・相手よし・第三者よし」の「三方よし」を心がけ、みずからが発信源となってより多くの人たちへと思いやりの心を広げていったとき、きっと「誰にとっても安心・円満な社会」が実現するのではないでしょうか。
令和元年8月号
【No.599】笑顔という贈り物

多くの人々のかかわり合い・支え合いで成り立つ社会。そこでお互いに気持ちよく暮らしていくためには「自分がされて嫌なことは、他人にもしてはならない」というだけでなく、もう一歩進んで「自分がされて気持ちのよいことを、他人にもしていこう」「人に喜んでもらえることをしよう」という考えが大切ではないでしょうか。
それは必ずしも「特別に大きなこと」をしなければならないわけではありません。自分の日常をあたらめて見つめてみると、ささやかでも周囲に喜びの種をまくことができる「何か」がきっと見つかるはずです。
そうした実行の手がかりは、仏教の経典の中にも見ることができます。次に紹介するのは「無財の七施」――財産がなくても人に施しを与えることができるという、七つの方法が示された教えです。
1.眼施――憎むことなく、好ましいまなざしをもって他人を見ること。
2.和顔悦色施――にこやかな和らいだ顔を他人に示すこと。
3.言辞施――他人に対して優しい言葉をかけること。
4.身施――他人に対して身をもって尊敬の態度を示すこと。
5.心施――よい心をもって他人と和し、よいことをしようと努めること。
6.床座施――他人のために座席を設けて座らせること。
7.房舎施――他人を家の中に迎え入れ、泊まらせること。
(参照=中村元著『広説佛教語大辞典』東京書籍刊)
私たちは、誰もが「思いやりは大切である」と知っています。しかし重要なことは、現実の人と人とのかかわりの中で、思いやりの心をどのように生かしていくかということではないでしょうか。
日常生活の中の、ほんの些細なことでもよいのです。まずは穏やかな気持ちで周囲を見渡して、和やかなまなざしを注ぐことから始めてみましょう。
「直接的に相手の役に立つことをする」というわけではなくても、相手の幸せを願って向けた笑顔は、相手の心に温かい思いを届けてくれることでしょう。それは相手に喜びをもたらす「贈り物」といえます。そのとき、自分自身の心の中にも穏やかで温かい気持ちが広がっていくのではないでしょうか。
反対に、ほかの誰かから思いやりを受けたときは、ほほえみをもって「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたいものです。その笑顔に触れただけでも、相手の心の喜びは増していくのではないでしょうか。これもまた、思いやりの実行の一つです。そんな「思いやりの贈り合い」は、相手との関係を円満にするだけでなく、そこで生まれた温かい空気は周囲にも波及して、広い社会を潤す力となっていくことでしょう。
令和元年7月号
【No.598】「食」と「心」

毎年6月は「食育月間」とされています。
食とは、体の成長や健康維持だけでなく、心の成長や人と人とのコミュニケーションも含めて、私たちの人生を豊かにするうえで重要な意味を持つものです。しかし、忙しい毎日を送る中では、ともすると「食」そのものの大切さを忘れてしまいがちではないでしょうか。
こうした状況に対する危機感からか、近年では「食」に関する教育、いわゆる「食育」への関心が高まってきました。平成17年には「食育基本法」が成立し、それに基づいて「食育推進基本計画」が作成されるなど、国を挙げての運動が推進されています。毎年6月の「食育月間」も、その1つです。
食育基本法の中で、食育は「生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの」「豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるもの」と位置づけられています。ここでは、毎日の食事を、単に「体の成長や健康維持のために重要なもの」とだけとらえているわけではないようです。それでは今、自分自身の日常の食事をあらためて振り返ると、どのようなことに気づくでしょうか。
「ありがたい」という言葉は、漢字では「有り難い」と書きます。つまり「そうあることが難しい」「めったにないことである」という意味であり、だからこそ、それがあることに感謝せずにはいられないという気持ちが込められた言葉なのです。
毎日の食事に関しても、その背景を考えてみると、さまざまな「ありがたいこと」が潜んでいることに気づきます。例えば、食事を準備してくれた人の労力。食材の生産や流通に携わった人の存在。さらには、すべてのものを育んだ自然の恩恵……。そのうちのどれか一つが欠けたとしても、この食事は私たちの口に入らなかったことになります。また、食卓を共に囲む人の存在の大きさは、いうまでもありません。
こうした「あって当たり前」の中にある「ありがたさ」に気づき、感謝する心を大きく育てていくことが、豊かな人間性を培い、よりよい人生を築くことにつながっていくのではないでしょうか。
今、私たちが「当たり前」と思っている日常は、本当は「とてもありがたいもの」なのかもしれません。まずは目の前の食事に対して、心からの感謝を込めて「いただきます」「ごちそうさま」を言ってみませんか。
令和元年6月号
【No.597】「いいところ」を見つめよう

私たちは日ごろ、些細なことから大きな問題まで、さまざまなことに物事の善し悪しを判断する目を向けています。それは「好きか嫌いか」といった感情に基づいていることもあるかもしれません。
そうした目は、自分自身に対しても向けられる場合があります。自分の中には誇れる長所もあるでしょうが、できれば他人の目には触れないように隠しておきたい短所もあるでしょう。短所や欠点が気にかかっているとき、私たちの心は暗く沈んでいきます。するとそのマイナス面に、ますますとらわれてしまうのではないでしょうか。
周囲の人たちへ向ける目にも、同じことがいえます。中には「困った人だな」「なんとなく苦手だな」と思う相手もいることでしょう。そんなマイナス面にとらわれていては、相手を心から受け入れることはできず、人間関係がギスギスしてきます。
私たちの物事を見る目は、一面的になりやすいようです。その点を自覚したら、とらわれから抜け出すためにも、積極的に人や物事の「いいところ」に目を向けるように努めたいものです。もちろん、自分自身に対しても。そうすることで、私たちの心は明るく穏やかになり、自分や相手の持ち味をよりよく伸ばして、円満な人間関係を広げていく手がかりが得られるのではないでしょうか。
私たちの持つ長所と短所は、表裏一体であることが多いものです。善し悪しを判断する感情を取り除き、それを単なる「個性」や「持ち味」として冷静に見つめてみると、短所と思っていた点にも「いいところ」が見いだせるのかもしれません。例えば「おせっかい」は「親切」、「しつこい」は「熱心」、「頑固」は「意志が強い」というように。そして相手の「いいところ」が見えてくると、親しみが増してくることでしょう。
私たち人間に与えられた「考える」という力。せっかくですからその力を、自分も周囲の人たちも少しでも喜びを感じながら生きることができるよう、プラスの方向に生かしていきたいものです。
令和元年5月号